ベオグラード
バルカンの暮らし セルビアなどバルカン半島の国々は旧ユーゴースラビア解体とその後の民族紛争で経済は疲弊し、主たる産業は農業だ。その 農業も家族経営がほとんどで、作付けは麦、トウモロコシのほか、食用油を採る菜種、ヒマワリなどだが、規模は家族が総出で作業できるほどのもので、実際、 刈り取った牧草を天日で乾燥させる家族総出の作業や、トウモロコシ畑を耕すのに自転車の前半分に鋤を溶接した自作の道具で耕している光景も見られた。
乾燥させた牧草は長い杭に絡ませて積み上げる伝統的なやりかたで野積みされ、ストークと呼ばれている。そのこんもりと盛り上がったストークが単調な畑にアクセントを与えていて、楽しい風景だった。 農家は主に三輪トラクタに農具や収穫物を積んで移動しており、なかには馬車がいまだに現役という光景も見られた。 自転車隊はドナウ川支流のドリナ川に沿って走る。対岸はボスニア・ヘルチェゴビナだ。云われてみないとドリナ川が国境だとは気づかない。濃い緑の川面にクリーム色の民家の壁が映えて美しい。 ボスニア紛争の傷跡 ボクらが、ベオグラードに到着した頃、メインストリートのキオスクには5月末に拘束された民族浄化を指揮したとされるセルビア人武装勢力司令官ムラジッチ 戦犯を扱った現地のグラフ雑誌が平積み。またベオグラードでは、このセルビア側の”支援”を阻止するためにNATOが行ったセルビア軍司令部へのピンポイ ント空爆跡(写真下左)がそのままになっていた。 ベオグラードを離れて美しいドリナ川を遡上する途中の街では紛争当時の銃撃戦の弾痕が残されていたり、逮捕されたムラジッチ戦犯を逆に「セルビアの英雄」と称えるポスターが張られていたりして、戦争の傷跡が人々の心と街の光景から完全に消えていなかった。 ボスニア・ヘルチェゴビナのモスタル市内でも、所々に紛争当時の銃撃戦の跡が残されている。モスタル市内を流れるネレトバ川に架かる美しい石橋、ネレトバ 橋(写真上左)は急流に向かって飛び込む伝統的なスポーツで有名だが、紛争でこの橋も破壊され、再建されて再び飛び込めるようになったのは最近のことだ。
休養日にバスで20キロ離れたクロアチアのドブロクニクに行く。「アドリア海の真珠」と呼ばれているドブロクニクは日本人も年間16万人も訪れる人気の観光スポットで、快晴の碧い海と城壁に囲まれた旧市街のレンガ色の家々が密集した風景は、絵ハガキそのものだ。 戦後66年。日本では戦争を知らない世代が人口の75%を越えた。この世代が戦争の悲惨さを追体験できるところは、広島や沖縄など日本にもあるが、20年前に起きた外国の戦争の傷跡を訪れることで、戦争の悲惨さや平和の尊さについて考えることもできる。 首都ザグレブルートはボスニア・ヘルチェゴビナを北上しクロアチアに向かったが、スタッフはアドリア海の海岸部は、交通事情が悪くサイクリングを奨めなかった し、クロアチアの首都ザグレブ近郊も同じ理由で走ることを断念。ダルマチア地方と呼ばれるアドリア海に面したクロアチア沿岸部を走りたかったが、あきらめ ざるを得なかった。ダルマチア地方は日本の蚊取り線香の原料の除虫菊の原産地なのだが、その群落を見ることはできなかった。 そういうわけで、クロアチアをまったく自転車で走ることなく、ザグレブにゴールしてしまった。クロアチアの首都ザグレブは北側の山と南側のサバ川との間の、広い平原に広がっている。
ここでは、セルビアやボスニアよりも市民の生活水準が高いことを示すように、比較的新しいクルマが至るところにひしめき、歩道をふさぐ駐車は当たり前(写
真下右)で、歩行者を悩ませている。シティーセンター周辺のイェラチッチ広場や聖母被昇天大聖堂などの歴史的建造物、青空市場などを見てまわった。新鮮野
菜が山積みされ活気があった。 世界自然遺産プリトヴィッツェ国立公園 6月17日。ザグレブでのフリータイムを利用して約100キロ南の世界自然遺産(1979年登録)、プリトヴィッツェ国立公園を訪ねた。 ちなみに石灰岩のカルスト地形の由来はザグレブから西へ100キロのスロベニアのクラス地方(ドイツ語でカルスト)に語源がある (第1ステージ終わり)
ハンガリー文化と暮らし 帰国するメンバーと別れ、ザグレブからハンガリーを目指す。一人旅は自由だ。グループ走行ができないような交通が激しい市街地でも問題なく走ることができる。 ハンガリーも農業国だが、大規模農業のなかに時たま小規模の農地が見られる。大規模農地では、トラクタがうなりをあげて麦刈りをしている。セルビアやボスニアと異なり、牧草刈りも機械化されている。単に機械化が進んでいるだけでなく、協同化しているのだ。 ブダペスト ザグレブから460キロ走ってブダペストに着いた。ベオグラードでドナウ川に出会い、その支流を走り、18日ぶりにドナウの上流に到達したわけだ。川幅は300メートル。
ブダペストは主要民族であるマジャル人によって拓かれたが、昔からオスマン帝国などの侵略を受けてきた。最近も、第二次世界大戦中のドイツ軍による占領、 そしてナチスによるユダヤ人20万人の虐殺、その後のソ連軍の占領と共産化と、さまざまな試練をくぐり抜けてきた歴史をもっているが、その逐一を訪れるに は時間が足りない。一般市民が暮らす古いアパートメントで2泊したり、国際草の根交流組織「サーバス」のメンバー宅に転がりこんで、なるべく市民の生活に 接するよう努めた。メンバーの女性と交流していて、彼女がブダペストの自転車交通対策に関わっていて、サイクリングルート開発を手がけていることがわかっ た。 ドナウ流域 ドナウ川はブダペストを過ぎてセンテンドレ、ビシェグラードへと遡り、エステルゴムで大きく西へ流れを変えている。このあたりはドナウベントと呼ばれ、ドナウのなかでもひときわ美しい。 岸辺から見た風景が、今度はドナウの流れの真ん中から見る風景に変わる。山の上の要塞、岸辺の小屋、遠くのサイクリストなどの風景を楽しんでエステルゴムの大聖堂(写真下右)に迎えられた。 翌日はエステルゴムから一旦スロバキア側に陸路で入り、ヒマワリ畑の中を走りつつ、またドナウの橋を渡ってハンガリーへ。ドナウは西に向きを変えている。 道は平坦なデルタ地帯に入り、森や牧草地を進む。ジェールの街は小さいながらもドナウデルタのなかに自立した立派な街だった。
ジェールからは進路を北西に取り、スロバキアの首都ブラティスラバを目指す。ブラティスラバ郊外からは良く整備されたサイクリング道路を走ったが、その先
にはブラティスラバ城(写真下左)が輝き、大統領府では美しい儀礼兵が直立不動で立っていた。ブラティスラバからウィーンへは、時速50キロを出す高速艇
で向かった。 ウィーンには6年前にドナウ川に沿ってドイツから下って来たことがある。そのときは「ウィーンの森」の雰囲気を楽しんだのだが、今回はウィーンフィルの演 奏で「フィガロの結婚」などオペラ歌手の独唱や、「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」、交響曲40番第1楽章など、モーツアルトの定番を楽しんだ。 ツベンテンドルフ封印原発 3月11日、東日本は1000年以上も経験したことのない巨大地震と津波に襲われ、福島第一原発は津波でコントロールを失いメルトダウン。世界が注目した。 原発建屋には、その外壁に取り付けられた太陽光パネルによる発電量が電光掲示板(写真右)で示されている。核燃料の代わりに太陽光で発電している「原発」 なのだ。その発電量はわずか16.5kw/hだったが、原発から自然エネルギーへという「フクシマ」を契機とした世界的な変革の流れの象徴のように感じら れた。実際に「フクシマ」以降、この国の市民の関心も高まり、日本人を含む見学者も増えているという。 グリーンウェイ ウィーンからチェコのプラハに行くために、この区間470キロを結ぶ「グリーンウェイ」と呼ばれている道路を走ることにした。 首都プラハからプルゼニュへ 標高480メートルの高みからプラハ中心部まで14キロの長い坂を下り、滑るように街に近づいてゆく。自転車旅ならではの醍醐味だ。 プラハでお世話になるホスト、ジョージとリダには昨
年、東京で会っている。プラハを案内するから是非いらっしゃいと歓迎してくれた。彼らが4日間提供してくれるスペースに驚いた。その場所は有名なカレル橋
と、プラハのシンボル、プラハ城の中間にあり、どちらにも徒歩数分で行くことができる。 ゴシック、ルネッサンス、バロックのそれぞれの時代に建てられた石造建築が取り囲む「旧市街広場」と呼ばれている広場の真ん中に大きなヤン・フスの像がある。 カレル橋の下流の橋の袂に四角い形の建物(写真上右)があり、王冠を模した金色の飾りが屋上にある。国民劇場だ。この存在もユニークで、かつてドイツ支配 下にあった時代、チェコ語が禁止されたことを契機に「チェコ語によるチェコ人のための舞台」をと呼びかけ建設された劇場で、チェコ文化のシンボル的存在 だ。 プラハ城にも登った。城の高みからは百塔の街が見下ろせる。城内は広く、一巡するのに3時間ほどかかった。9世紀頃から城の建築が始まったが、ゴシック、 ルネッサンス、バロックと時代を追って拡張されたり、他国の支配の拠点となるなどの歴史を秘めている。城内には教会や修道院、国立美術館、王宮美術館など が建ち並び、その幾つかを訪れた。面白かったのは、王妃の部屋には便器と一緒に祈りのための祭壇が設けられていたり、王族たちの放蕩で怠惰な生活を表す露 骨な絵が展示されていたことなどだ。 新市街 につながるヴァーツラフ広場はチェコが1968年のソ連軍戦車による蹂躙と、その後1989年の「ビロード革命」を成し遂げたチェコ民主化の記念すべき場 所でもある。長さ700メートルの広場には観光客が溢れている。この広場が当時、100万人の市民で埋め尽くされた。街のショップにはソ連戦車をあしらっ たTシャツも並んでいて、観光に一役買っている。 夜はチェコの国民的芸術の一つ、操り人形劇を鑑賞した。人形劇といっても日本の文楽と同様、れっきとした大人向けで、演目は「ドンジョバンニ」。操り人形 劇向けに愉快で楽しいドンジョバンニの放蕩物語に仕立ててある。文楽のように口は動かないが、手足の動きがダイナミックだ。文楽の繊細な感情表現とは対照 的でドタバタと少々荒っぽい動きが特徴だ。コミカルな操り師の手の表現も演出の一部となる。 アパートに戻るとジョージからの置き手紙が机に置かれていた。リダの両親に会いに行くので、もう会えないがプラハを楽しんで、とある。 ジョージとリダのアパートを後に、チェコを走る最後のルート、プルゼニュを目指す。途中で14世紀に築城されたカルルシュテイン城(写真上左)に迂回し、小高い山の上に聳える山城の上を白い雲が流れるさまを飽きずに眺めた。 ルツェルンの風景 プルジェニュ中央駅から国際列車でドイツを経由してチューリッヒに向かう。 ミュンヘンから乗り換えたドイツの列車は、南ドイツのリゾート地帯を抜けてスイスに入る。少しずつ山国らしい風景となり、スイスアルプスの前衛峰も時折姿を見せるなか、定刻通りにチューリッヒ着。
翌日は雨模様だが、ピラタス山に登ることにした。登るといっても自転車で登れる山ではない。登山電車で登るのだ。標高2119メートルの山頂まで登山電車
は440メートルの湖畔から高度差1660メートルを時速9キロで登る。その乗り場まで自転車で20キロほど湖岸を走る。 旅の終わりに自転車に取り付けているサイクルメーターで延べ走行距離を確認したら、2400キロとなった。旧ユーゴ探訪とハンガリーからチェコへの自転車旅、実走30日間(7カ国)の距離である。(了)
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